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金城学院のセーラー服の物語

全国の学校において「男女のデザインを統一しやすい」などの理由からブレザースタイルの制服が増えており、セーラースタイルの制服は希少となりつつあります。上下に分かれたセパレート型の、王道のセーラー服。この歴史が実は、金城学院から始まったことはあまり知られていません。それもそのはず、セーラー服の発祥が金城学院だと判明したのは、2018年のこと。日本近代史の研究者であり学校制服研究の第一人者であられる日本大学(日本史学)、刑部芳則教授の緻密な調査研究により明らかにされました。
時代とともに流行は移っても、セーラー服の清く柔らかな印象は変わりません。セーラー服姿の生徒たちだけを見つめれば、歳月の流れを忘れてしまうほどです。今や金城学院の誇りと伝統の象徴の一つとなった「金城学院セーラー服」の物語から、新しい時代を求めて懸命に歩んできた生徒たちの息吹を感じてください。
日本で初めて制服として制定された、金城学院のセーラー服。2021年に100周年を迎えます

日本で初めて制服として
制定された、
金城学院のセーラー服。
2021年に100周年を迎えます。

1921年(大正10年)9月、金城学院は日本で初めて、セーラー服を制服としました。当時の写真を見ると、左から1人目と3人目の生徒が草履を履いており、まだ洋服を着慣れていない様子が感じられます。セーラー服の仕様は、紺地の襟と胸当てに白線2本、袖に白線2本を上限に重ねた4本。リボンは制服と同色で蝶結び。名古屋襟と呼ばれる、腹部中央まで大きく切り込みが入った襟は、このセーラー服から生まれました。
1921年(大正10年)の集合写真
1921年(大正10年)の集合写真

セーラー服の誕生は、
新しい時代への挑戦でした

時代をさかのぼり金城アルバムの扉を開くと、明治の初め、生徒たちは着物で登校していました。1919年(大正8年)には、和服の制服が制定され、木綿服の白襟に鮮やかな青藍色の袴、というハイセンスなスタイルは「バイブルガール」と呼ばれ、羨望のまなざしが注がれていました。その後、1920年(大正9年)に「作れる人は洋服にするように、型は自由」と洋服での通学が推奨されるようになりました。そこで生徒たちが目を向けたのは、アメリカからの宣教師、ローガン先生の娘が着ていた襟に3本の白線が入ったセーラー服。まだまだ洋服を着る日本人が少ない時代の、新しい一歩でした。
1898年(明治31年)着物姿の第3回卒業生たち
1898年(明治31年)着物姿の第3回卒業生たち
アメリカからの宣教師、ローガン夫妻と娘たち(メリー、マーサ)
アメリカからの宣教師、ローガン夫妻と娘たち(メリー、マーサ)
1921年(大正10年)4月の集合写真。セーラー服姿と着物に袴姿が混在
1921年(大正10年)4月の集合写真。
セーラー服姿と着物に袴姿が混在
1927年(昭和2年)の集合写真。初期の夏服は白無地が多い
1927年(昭和2年)の集合写真。
初期の夏服は白無地が多い

戦時中の自由への圧力に
屈することなく守り抜いた、
金城学院のアイデンティティ。

日中戦争が始まった1937年(昭和12年)、おしゃれはぜいたくとされ、あらゆる自由が奪われました。セーラー服の襟の白線も3本から2本、そして1本へと減っていき、袖口と胸当てからは白線自体が消えました。さらに1941年(昭和16年)大東亜戦争に入ると、制服は国家の統制下に置かれ、スカートが禁止に。そんな窮屈な時代の中でも、金城学院の生徒の多くが、姉や先輩から譲り受けたセーラー服の上着を身に付けました。圧力に屈するばかりではない強い精神をもって、制服に宿る「金城学院のアイデンティティ」はこうして守り抜かれていったのです。
1936~1941年(昭和11~16年)の集合写真。まだ全員が上下ともセーラー服姿でした
1936~1941年(昭和11~16年)の集合写真。
まだ全員が上下ともセーラー服姿でした
1941~1945年(昭和16~20年)の集合写真。スカートが禁止され、モンペにセーラー服という姿に
1941~1945年(昭和16~20年)の集合写真。
スカートが禁止され、モンペにセーラー服という姿に
1943年(昭和18年)の集合写真。2列左から5人目のように文部省標準服の生徒も
1943年(昭和18年)の集合写真。
2列左から5人目のように文部省標準服の生徒も
1944年(昭和19年)モンペ姿の生徒たち
1944年(昭和19年)
モンペ姿の生徒たち

再び、セーラー服へ。
一筋のホワイトラインは、
伝統を紡ぐ金城学院生の誇りです。

生徒たちが再びセーラー服を着られるようになったのは、1945年(昭和20年)の敗戦後しばらくしてからでした。その後、1947年(昭和22年)には新学制による金城学院中学校が設立し、翌1948年(昭和23年)に金城学院中学校と改称、金城学院高等学校も設立されました
戦前は自由だった制服のネクタイの色や襟、袖線の数は、中学校と高等学校それぞれに定められました。ただ襟の白線は戦時中に減った1本のまま。もうおしゃれを禁止されることも、物資の心配もなくなりましたが、戦火の中でも懸命に生きた金城学院の歴史を忘れたくない、今こうして平和な時代になったことに感謝する心を持ち続けたいという思いが、一本の白線にこめられたのです。
このセーラー服は金城学院の誇りです。中学校に入学した日から、高等学校を卒業するその日まで、袖を通せるのは限られた時間ですが、セーラー服が象徴する金城学院の「伝統」は、卒業後もずっと胸の奥で灯となり生き続けるのです。神さまの光に照らされた一筋のホワイトラインの上を、これから先もずっと歩んでいけますようにと――。
1954年(昭和29年)修学旅行
1954年(昭和29年)修学旅行
1966年(昭和41年)木製の机は2人で1つ、1人掛けの椅子も木製
1966年(昭和41年)木製の机は2人で1つ、1人掛けの椅子も木製
1988年(昭和63年)登校風景
1988年(昭和63年)登校風景
2012年(平成24年)授業風景。机と椅子が2011年(平成23年)から新しくなった
2012年(平成24年)授業風景。
机と椅子が2011年(平成23年)から新しくなった
1968年(昭和43年)バス停前の登下校風景。歩道がまだ舗装されていない
1968年(昭和43年)バス停前の登下校風景。歩道がまだ舗装されていない
1993年(平成5年)中学校の修学旅行
1993年(平成5年)中学校の修学旅行
2019年(平成31年)管弦楽部の集合写真
2019年(平成31年)管弦楽部の集合写真

金城学院創立130周年記念事業として
日本最古のセーラー服を復元

1921年9月に制定された日本最古のセーラー服を復元するために、2018年7月31日、130周年企画委員会のもとにプロジェクトチームが発足。当時のセーラー服が現存していないため、復元作業で目指したのは日本最古のセーラー服を着用した私立金城女学校生徒7名が写った記録写真でした。完成品が納められたのは2019年8月7日。1921年当時の生徒と同じポーズで整列した現代の生徒たちの姿に、脈々と受け継がれた歴史の重みが感じられます。
金城学院創立130周年記念事業として復元した日本最古のセーラー服制服を着る、2019年の集合写真
金城学院創立130周年記念事業として復元した
日本最古のセーラー服制服を着る、2019年の集合写真